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「完全な回文」と音声学・音韻論

日本語では、文や句をかな書きした時、反対からでも同じに読める場合に、これを回文と呼ぶようだ。この「かな書きした時」というのが曲者で、音声的観点からはもちろん、音韻的観点からも、「回文」とは言えないものも回文となってしまう。

例えば、有名な回文「竹やぶ焼けた(たけやぶやけた)」だが、これを音韻表記(この例では、音声表記もほぼ同等)とすると概略 /takeyabuyaketa/ ぐらいになる。これを反対から「読む」と /atekayubuyekat/ となり、回文にならない。さらに、/ye/ のように通常の日本語には、現れないような音節が含まれてしまうし、末尾に音節化されない /t/ が残るので、日本語の(可能な)文とも言いがたい。

「たけやぶやけた」の場合だと、これをモーラや音節など音韻論的な単位に基づく回文と呼べるかもしれない。(音節は、音声学的な単位だと考える向きもあろうが、もし、それを認めるなら、その意味において「音声学的回文」と呼ぶことができるかもしれない。)

『回文ことば遊び辞典』(上野登美夫(編))には、江戸時代の川柳として、「生垣は手品をなして萩が景(いけがきはてじなをなしてはぎがけい)」というものが紹介されている。これは、ひらがな書きを参照すると分かるが、清音と濁音のの区別をせず、かつ、「は」の字は、助詞の時は、/wa/と読み、それ以外では、/ha/と読むということにしないと回文として成立しない。当時のかな書きの仕組みとして、ある文字の清濁は、文脈から推測していたのだし、「は」の読みも、文脈から推測できるのだから、この回文の成立当初は、「回文」と呼べたかもしれない。しかし、清濁の区別や「は」をどう読むかは、音声学的ではないし、一般には音韻論の問題でもない。(清濁の区別の一部は、連濁という音韻的な現象の場合もある。)

そこで、音素表記した際に「回文」になっているものを、「完全な回文」と呼ぶことにしてみよう。例えば、「あやや(/ayaya/)(/ajaja/と表記すべきかも)」や「泡って、減ったわ(/awattehettawa/)」など。これらとて、録音したものを逆再生してみても、元の発音とすっかり同じというわけにはいかない。例えば、「あやや」は、東京方言では、一拍目の「あ」が高く発音され、それに続く「やや」は、低く発音されるので、逆再生すると、妙な発音に聞こえるはず。

さて、前掲の上野(編)には、「ローマ字表記」の回文(265ページ)が紹介されている。これは、ここで「完全な回文」と呼ぶものとほぼ同じものだ。その中に「味気のない兄貴じゃ」というものがある。これは、「味気のない姉貴じゃ」の間違いではないかと思ってみていたのだが、そうでもないらしい。「味気ない」は、「あじけない」とも「あじきない」とも読むらしい。

ところで、「味」のローマ字表記は、aji だろうか、それとも azi だろうか、はたまた、adi だろうか?「味気のない兄貴じゃ」がローマ字表記回文になるには、aji でなければならない。しかし、同書の同ページに「新妻があがむ寺院」という例があるが、この例は、niizuma ga agamu ziin と表記されている。うーむ。一貫してないというか都合がいいというか。

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